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読者体験手記
母の体に、
妻が虐待したアザが・・・
父の17回忌から始まった母の認知症。
仲が良かった嫁と姑、信頼し合っていた夫と妻の間に、ひびが入り始める。
「ババアはホームに入れて!」と叫ぶ妻、そして暴力の日々に危機感が一気に高まった・・・。
河上 輝久 さん (大阪府 60歳)
最初の異変

  発端は、父の17回忌だった。 83歳の母も連れ、大阪から愛媛まで片道7時間かけて深夜、車を走らせて行った。無事に父の供養を終えた後、母の兄の家で会食をした。 「この歳だから、ここへは二度と来られないと思っていたが、本当に良かった」と母は笑顔を絶やさず、私も報いられた気がしてうれしかった。 この家は、母が生まれ育った思い出の家。「いつ死んでも不思議ではない歳になった。最後の思い出だから」と懇願され、意を決しての旅だった。

  会食の後、母は不思議なことを言いだした。「コートがないのじゃ」「コートは最初から持ってこなかったぞ」と私。 「いいや、確かにここに置いた」。親戚にしつこく尋ね、探し回って困惑させた。 「いい加減にせんかい! 持ってきていないと何度言ったらわかるのだ!」。 私が怒った勢いで母の行動はやんだが、納得いかない表情だった。これがすべての始まりだった。

妻の言葉に表れた微妙な変化

  帰宅して一夜明け、早朝6時過ぎ。「誰か助けてくれ!・・・・・・誰か!」

  玄関口の土間に、くの字に横たわっている母を見つけた。

  階段を踏み外したかと思って聞いたが、ただ私の腕にしがみついてくるだけだった。 どうにか部屋に寝かせてみると、けがをしている様子はなかった。

  「お義母さん、大丈夫なの?」。母を案じる妻。「心配するな! お前は横になっていろ」と制した。 妻は、前年に交通事故で脳挫傷と頭蓋骨骨折の大けがを負い、朝方は薬のために体を自由に動かすことができなかった。

  「帰省の疲れが出ているのだろう。2~3日たてば元気になる」と安閑としていたが、翌日には足取りが危うくなり、トイレにも壁にへばりつきながら行かねばならなくなった。 妻は自由がきかない体であるだけに、母の世話は最初から無理な相談。しかし、妻の言葉には微妙な変化が表れた。

  「お義母さん、なに呆けてるの? しっかり歩きなさい!」。 それも妻なりの叱咤激励なのだと、私は何も言わずにいた。

便を握りしめた母を
思わず平手打ち


  事件はそんな折に起きた。「早く来て!お義母さんが!」。 妻の悲鳴に、何事かと飛んでいくと、母は片手を開いて見せた。 「これは何じゃろうね?」。その手には自分の便が握りしめられていた。

  「婆さん! 何をしてるかわかってるのか!」

  気が動転して自分を見失った私は、母の頬を平手で殴っていた。 しかし、私を見つめる母の顔は能面のように感情がなかった。我に返った私は妻に、風呂のしたくをするように言った。

  母の体を洗いながら、「ごめんな、ごめんな」と、親に手をかけた惨めな感情で涙が止まらなかった。 体を拭いてパンツをはかせるのにも苦労したが、妻は横にいても素知らぬ顔。一瞬怒りが湧いたが、ぐっとこらえた。

  こんな毎日が続き、母と仲の良かった妻は消え失せた。

  「何度言ったらわかるの、このババア!」

  ある時、妻は私の目の前で、母の頬を強く叩いた。腕をねじ上げて制止したが、「わからせてやる!」と叫び続けた。

  1カ月たつ頃、「向かいのおじいさんも、区役所に頼んで施設に入れたそうですよ」と、妻は他人事のように冷たく言い放った。 私は悲しくなり、「お前まで変わってしまった。優しくできないのか?」と言うと、「ババアはホームに入れて!」。 優しかった妻が、異常な言葉を吐き捨てた。

デイサービスから問われた
虐待の真相


  妻の介護と母の介護、仕事との両立で追い詰められた私は、「いっそ、母と窓から飛び降りれば楽になれる」とまで思い始め、精神の正常を失っていった。

  窮地を察した知人の紹介で、デイサービスを利用するようになったのはその頃からだ。 ある日、職員から「このアザは?」と問い質された。母の頬には、赤紫色の手形がクッキリと・・・・・・。 「言うことを聞かないので私が叩きました」と答えたが、それは妻の仕業だった。 その後も妻は私のいない間に手を出すことが増え、執拗に施設に入れてほしいと訴え続けた。

  とうとう根負けして、区役所に申し込んでみたものの、「お母さんは、123番目になります」と、福祉課の職員は申請書の分厚い束を示し、淡々と言った。

  「それじゃ、122人が亡くなるまで順番は来ないの? そんなバカなことがあるの? 何が福祉よ!」。 期待を裏切られた怒りで、妻の暴力はますます高じていった。私は危機感を募らせ、区役所を再び訪れた。 「私どもの家庭では一刻も待つことができません。妻は精神に異常を来たし、毎日のように母に暴力を振るっています。 もし、このことで母が亡くなった場合は、事情を事前に相談したことを明記しておいてください。 裁判所で証言をお願いしますから」

  職員は「少し時間をください」と席を立ち、上司と数分相談して戻ってきた。 「今回は特例ということで、1週間後に○○特別養護老人ホームに入所してください」。

棺のなかの母に許しを乞う

  いよいよ来てしまった、入所の日。「婆さん、許してくれ!」と、母に泣いて許しを乞うた。 呆けが進んで事情が理解できまいと思っていた母も、泣いていた。 そして、「長いこと世話になった。本当に世話になったよ」と。私は手続きを終えると、逃げ出すように帰宅した。

  だが、それからは毎週末、お菓子や果物を持って子どもたちと一緒に訪問した。 中学生になった娘が「ばあちゃん、来たよ!」と言うと、相好を崩して抱き寄せていた。

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「読者体験手記」は、『かいごの学校』(現在、休刊中)より掲載したものです。