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読者体験手記
難病との闘いの末、
ついに自分の足で立てた!
数万人に1人という難病、ギラン・バレー症候群。
完全に動かなくなった両手足に絶望し、「死」を考えたことも。
80歳という年齢からのチャレンジは、そのどん底から始まった。
井上 一男 さん (兵庫県 80歳)
難病の宣告に
「死」を考える


  私に最初についた病名は「末梢神経狭きょうさく窄症」だった。 最新技術の粋を集めた検査の結果だったが、手術しても術前より悪い結果となり、両脚の機能は全廃、両手も機能不全に。そこで「ギラン・バレー症候群」と病名が変わった。数万人に1人という難病・奇病という不運に突き落とされた。

  それでも現行の医療制度では3カ月での転院を余儀なくされ、次はリハビリ病院へ。 マニュアルどおりの30日間の訓練ではいっこうに良くならず、シモの世話は大小とも看護師さんの手を煩わせた。 入浴もいわゆる機械浴である。こんな体で残りの人生を送らねばならないなら、と「死」を考えることもあったが、そうは言っても人間、なかなか死ねるものではない。

  しかしある日、看護師さんの首にぶら下がる格好で車いすに移動している最中、その看護師さんが気がついたように言った。「井上さん、自分で立とうとしていますね。その気迫があれば、近いうちに立てるようになりますよ」と。

「立てた!」
祝福の涙に見た、希望の光


  それを聞いて1週間後、私は本当に立てそうな気がしてきて、危険を覚悟でベッドの手すりにつかまり、慎重に立つことを試みた。足もとは若干崩れそうだが、必死に立つ。立てている。 「立てたんだ!」。思わず声が出た。すぐさまナースコールを押した。
「あっ、井上さんが立ってる!」。
呼ばれた看護師さんはナースステーションに走って戻り、「井上さんが・・・」と、口々に言い交わす声が聞こえてきた。 詰めていた看護師さんたち5~6人が私に駆け寄り、「本当に良かったですね」「頑張りましたものね」と喜びを共にしてくれた。
「ありがとうございます。皆さんのおかげです」

  そう言った途端、私の目からポロリと涙が落ちた。
「立てれば、次はきっと歩けますよ」
励ましの言葉に、涙は後から後から滝のように流れ落ちた。看護師さんたちも抱き合って涙を流している。 その光景を見て、私は前途に光が差したように思った。 なんと表現すればよいのか。喜び、感動、感謝に満たされて、広々とした天地に抱かれている感覚だった。

4カ月後に退院、
そして新たな独居生活が始まる


  それからは、ベッドを手がかりにしっかり立ち上がるリハビリに専念した。 それを10日ほど繰り返すと、看護師さんの手助けで歩行器に移り、付き添われて廊下を往復できるようになった。 歩けることがいかに有り難く、意義深いことか、罹病して身をもって知った期間だった。 4カ月にわたる訓練を経て、つかまりながらも自力で歩けるまでになり、ついに退院の日を迎えた。

  退院はめでたいことではあるが、新たな困難が待っている。 妻に先立たれ、娘は遠くに嫁がせた身。不自由な足を引きずりながらの独居は容易ではない。 手すりだけが頼りで、誰に甘えることもできない以上、一人で頑張るよりほかに道はない。 今は何とか身の回りのことをこなしながら、自治体から歩行器を借り、自宅で歩行リハビリに明け暮れている。  

難病を宣告されての絶望、回復の兆しが見えなかった入院時のつらさ、そしてリハビリを通して出会った感動の数々。 それらに思いを馳せれば、「やればできるのだ」という実感がわいてくる。 自分の2本の足でこの大地を踏みしめ、これからも自分の力で歩いていきたい。そんな思いでいる今の私である。  

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「読者体験手記」は、『かいごの学校』(現在、休刊中)より掲載したものです。