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読者体験手記
「お袋、一緒に死のう」
二度の心中未遂の先に見えた救い
働き盛りの47歳で仕事を整理し、――
家族と別居してはじめた認知症の母の介護。
やがて行き詰まり、二度も心中を決意した佐藤方則さんは、
その後出会った家族会で救われ、母を自宅で看とりました。
今は供養のため、在家得度までした、
波乱の7年間について、思い出を寄せてくれました。
佐藤 方則 さん (介護家族会サイクル代表)
「余命1カ月」と言われ
仕事もやめて介護に専念


  「あれ? おかしい」と気づいたのは、1996年の初夏。 父親ががんで亡くなったのに、「お父さん、遅いわね」とお袋。 葬儀の写真を見せても「仕事に行っています」。 やがて部屋に異臭が漂い、原因を探るとお漏らしで汚れた下着が大量に隠してありました。 当時はまだ認知症という言葉も知識も、周囲の理解もありませんでした。

  その秋に胃潰瘍と大動脈乖離で入院したお袋は、無事退院はしたものの、医師からは「この状況ですと1カ月後の生存率は1割です」と宣告されたのです。 「1カ月なら頑張れる」。私は手広くやっていた仕事を整理し、子育て中の女房と一時別居し、実家で母との同居を決めました。しかし、1年と覚悟を決めた介護は7年間続きました。 家族会と出会った後半は感謝の日々だったのですが、前半4年間はまさに悪夢の日々だったのです。

未遂に終わった心中
深夜の大井埠頭で2度も


  次第に正気を失っていくお袋は昼夜逆転、徘徊、ボヤ騒ぎと、あらゆる混乱をまき散らしました。 お袋にとって私は、ある日は弟だったり、ある日は亡き親父だったり・・・。 料理好きだったお袋が火を使わないよう、台所のドアは釘で打ち付け、出ていかないよう、家中にバリケードをつくりました。 でもお袋は、高齢の女性では到底持ち上げられないような一斗缶を、軽々持ち上げてバリケードを突破していたので、認知症になると、なにか人知の及ばないパワーが出ているんだなと思いました。

  私も必死でした。だから一生懸命つくった料理を「いらない」と言われ、「そうかよ」とキレてごみ箱に捨てたり、「もう二度と火は使いません」と念書を書かせ、ハンコまで押させたり。 書いた5分後には、念書を書いたことすら忘れているのに、そうさせずにはいられなかったのです。 どんなに介護しても、何一つ報われない・・・。

  毎日が混乱のなかで、私も精神的に煮詰まっていたのでしょう。 もしお袋が正常だったら「こんな自分は死んだほうがマシ」と言うに決まっている。 3年目にそんな考えが頭をよぎりました。 「お袋、一緒に死のうか?」と聞いてみると、「そうだね」と、そこだけ正気に戻ったようにうなずいたのです。

    私はお袋を車に乗せ、夜の大井埠頭の岸壁に連れて行きました。 2人で最期の一服を味わっていると、トントンと窓を叩く人影が。警官でした。 こんな深夜に、50代と80代の男女が乗った車が車両進入禁止の埠頭にいたら、怪しまれるに決まっています。 出鼻をくじかれ、「じゃあ今日はやめよう」と家に帰りました。

  1年後、気がつくと、またお袋と2人で車ごと海に飛び込もうとしていました。 冷静に考えれば、女房や子どもをどうするつもりだったんだ、どうしてお袋を1人で逝かせようとしなかったんだと不思議なのですが、当時は何も考えられない状況でした。 そして、あろうことか、再び、警官の職務質問にあって、心中しきれなかったのです。

「あら、おかえり」の一言で
全身から力が抜けた


  翌年、介護家族会の存在を知りました。 同じように悩んでいる人と出会い、先輩方の体験を聞いて、大分うまくお袋に対処できるようになりました。

  ある日、家族会で帰りが遅くなり「お袋、大丈夫だろうか」と案じつつ、あわてて帰路につきました。 「ただいまっ!」。家の中は暗かったのですが、お袋はいつものベッドに腰かけ、何事もなかったように「あら、おかえり」と言ったのです。
「ああ~、なんだ......」。この時、全身の力が抜けたようになり、目からウロコが落ちたのです。 結局お袋は、私がしゃかりきにやっても、やらなくても、変わらないことに気がついたのです。 それからの3年はずっとラクになりました。毎日のおかずが同じでも、一緒に「おいしいね?」と笑いながら食事ができ、少々帰りが遅くなっても、お袋は、辛抱強く待っていてくれました。 自分があれこれと構いすぎるより、手を抜くぐらいでもいいんだということも、家族会から学びました。

両親ともに家で看取り
今は得度して供養三昧の日々


  1カ月と思っていた介護は、結局7年間続きました。前半は死に物狂いで、後半は淡々と。 訪問看護の助けを借りて、最期は家で看取ることができました。 私は幼いころから、両親の老後の世話をするのは自分の勤めと刷り込まれて育てられてきたためでしょうか。 親に対して現世での役目が終わったと悟り、得度しました。 今は、毎日両親の仏前で経を読むことで、日々、供養をしています。 そして、この経験を1人でも多くの人に役立てられればと、今、自ら家族会を立ち上げています。

 
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「読者体験手記」は、『かいごの学校』(現在、休刊中)より掲載したものです。