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読者体験手記
父の急死
病気の母についた嘘
母が入院中に父が急死。親戚がいない私は1人でその死を受け止め、通夜を行う。
そして、その足で母のいる病院へ向かう。父の死を伝えるために・・・。
山本 敦子 さん (宮城県・47歳・仮名)
母の入院。認知症の父
仕事をしながら疲労はピーク


  独身のまま年を重ねた私は、50歳近くになっても両親と同居していました。兄弟もいないため、子どもの頃は両親の愛情を独り占めにして育ちました。私が35歳で起業して仕事が順調になった頃から、両親は目立って老い始め、今度は私が庇護する立場になってしまいました。

  母の具合が特に悪くなったのは、3年前。重い腎臓病でした。母より12歳年上の父には、既に軽い認知症の症状が出ており、犬の散歩に出ては道がわからなくなり、近所の人の報告を受けて迎えに行くことがたびたびありました。

  日々不安定な父を1人にしておくわけにはいかないと、母は入院を拒み、自費でヘルパーさんを雇い、通院しながら暮らしていました。しかし、母の病状は思わしくなく、昨年1月に緊急入院。日中、1人残される父が心配だったので、要介護認定を申請し、すぐにケアプランを作成してもらいました。ところが「要介護1」なので、介護保険では、父の見守りを望めず、結局自費で家政婦さんを雇わざるを得ませんでした。娘が同居していてもフルタイムで仕事をしているため、日中は留守になるという事情はまったく考慮されないことに驚きました。

  母の入院を理解したのか、父は次第に様子が落ち着かなくなり、目が放せなくなってきました。時間の感覚がなくなり、夜中に犬の散歩に出かけたりするので、玄関を開けるとチャイムがなるようにセンサーを付けました。父の症状悪化に伴い、私は熟睡できない毎日が続き、体重は減るし、疲労はピークに達していました。

突然訪れた父の死を
母に知らせられない苦悩


  母が入院中のある日、今度は父が突然倒れました。救急車で搬送されたものの、そのまま意識は戻ることなく、1週間後にあっけなく亡くなりました。原因がわからず、医師に説明を求めると、「それならご遺体を解剖しましょうか?」と、まるで逆ギレのような言い方をされ、泣く泣く諦めました。

  父の亡骸を前に、まず、私は頭をよぎったのは、「母に何を言おうか」・・・。透析を続けている母に余計な心配はかけたくないから、父の様子が落ち着いたら伝えようと、私は父が倒れて入院したことすら、母には伝えていなかったのでした。

  とにかく葬儀を出さなくては。近くに親類縁者がいないわが家では、私1人で父の葬儀をとりしきるしかなく、関係者への通知を済ませると、会社の人たちの助けを借りて通夜を行い、その足で私は、意を決して、喪服のまま母の病室へ向かいました。父の死を伝えるために・・・。

「あのね、パパの具合が急に悪くなって、おととい亡くなったの・・・。」
「えっ・・・?」
「ごめんね。ママの具合が悪かったから、言い出せなくて。でも、あっという間だったの。それに苦しんだりしなかったの。最後にママによろしくって」
「ほんとに?」
「本当に」
「そう・・・。最後までパパに心配かけちゃったね」

  冷静に考えれば、母が入院した時はすでに父の認知症は重く、「ママによろしく」なんて言えるはずがないのです。母もそれはわかっていたのに、私の言葉を黙って受け止めてくれました。そして、それを理解した瞬間、今までこらえてきた私の涙の堤防が決壊しました。決して泣くまいと決めていたのに。そして、今度は母が私を気遣う番でした。両親の老後は私が看ると、大見得を切っていても、結局、私は最後まで2人の"子ども"なんだと実感しました。

  母は葬儀の数時間だけ、看護婦さんに付き添われ立派に喪主を務めました。涙を見せず、苦しまずに逝ったという私の言葉を信じて。

  母は現在も入院中ですが、少しでも一緒の時間を持ちたいと、私は仕事が終わると毎晩病院にかけつけ、そのまま同じ病室で夜を過ごしています。時折、父のことが話題にのぼりますが、2人とも楽しかったことしか思い出せません。老いや入院など、大変な経験を経て人は死んでいくものですが、遺された家族は幸せだった頃を記憶していけばいいんだなぁと思っています。
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「読者体験手記」は、『かいごの学校』(現在、休刊中)より掲載したものです。